Black-Scholesモデル超入門③: 伊藤積分と伊藤の公式
Black-Scholesモデルの初学者向け解説シリーズです. 前回は, Black-Scholesモデルの式
の直感的な意味を説明し, が具体的にと表されることを見ました. 今回は, の式のより厳密な意味を解説し, 具体的な表示を与えます. そのために必要なのが伊藤解析という理論です.
ここまで, 方程式の数学的意味はかなり曖昧なままにしてきました. と同様に, 「分母を払った」微分方程式
を解けば良さそうですが, この式は意味を持ちません. なぜなら, Brown運動は至る所で微分不可能であり微分が存在しないからです. 前回, Brown運動のシミュレーション結果をお見せしましたが, あれはあくまで近似であり実際のBrown運動ははるかに「ギザギザした」グラフを描いています. そのため微分不可能(=なめらかでない)になってしまうのです.
Stieltjes積分
の方程式をどうするかというと, をからまで「積分した」
として解釈します. とは一体何者かという疑問が湧きますが, 関数とに対して積分を定義する理論としてStieltjes(スティルチェス)積分というものがあります.
Brown運動は連続関数なので, とが連続な場合のみ考えます. 区間]をいくつかの点に分割し, この分割の仕方をと書きます. 分割された小区間の幅の最大値をとします. 和がで収束するとき, その極限をと書きます. すなわち,
このように定義される積分をStieltjes積分, より正確にはRiemann-Stieltjes(リーマン・スティルチェス)積分といいます. いくつか補足しておきます.
- です. 実際, とするととなります.
- のとき, は通常の積分に一致します(Riemann積分の定義を考えればすぐにわかります).
- が級のとき, は存在してに一致します. ざっくり言えば, 平均値の定理より]でなるものをとり, で極限をとることで示せます.
- が級でなくても, 「有界変動である」という条件をみたせば は存在することが知られています.
はStieltjes積分として解釈して一件落着となりそうですが, 実はそれも不可能です. 理由はやはりBrown運動が「ギザギザすぎて」有界変動にもならないからです.
伊藤積分
は実際には伊藤積分として定義されます. 伊藤積分は伊藤清という確率論の研究者によって1940年代に考えられたもので, 通常定義できないはずののような積分(=Brown運動に関するStieltjes風の積分)を確率論的な議論により定義したものです. 伊藤積分の構成方法については省略しますが, その雰囲気としてはやはりのなんらかの意味での極限と思ってください. 伊藤積分が定義できるための条件についてはおまけで簡単に説明します.
一般に, 方程式
のことを省略してと書き, 確率微分と呼びます. つまり, は
を略記したものだということです. また, に関する伊藤積分も定義することができ,
が成り立ちます. という記法と整合していることが確認できると思います.
伊藤の公式
伊藤積分を使った計算のことを伊藤解析と呼びます.その中で最も重要なのが伊藤の公式で, 普通の積分とは異なる計算ルールが適用されます. まずは通常のStieltjes積分に関するルールからみましょう.
定理1. が連続かつ有界変動で, がそれぞれの変数に関して級関数のとき,
ここで, はそれぞれに関する偏微分を表す. 特に, が級のとき
(定理1の主張終わり)
定理1はある種のTaylor展開のようなものです. のとき, 2つ目の式は微分積分学の基本定理と同じになります.
伊藤の公式とは, 定理1の伊藤解析バージョンのことです.
定理2(伊藤の公式). とする. はに関して級, に関して級とする. このとき,
ここで, , すなわちと定義する. 特に, が級のとき
(定理2の主張終わり)
定理2を確率微分で書くとそれぞれ
となります. との定義を使ってさらに書き下すと, それぞれ
となります.
は二次変分と呼ばれます. イメージとしては, は形式的な掛け算を表しています. にを代入して, 形式的なルール
を適用します. すると,
との定義と一致します. こそが伊藤の公式を通常と異なるルールたらしめている原因です. なお, の定義においてとおくとであり, が得られます. これは形式的なルールと整合しています.
の具体的表示
さて, 方程式の解は実は
で与えられます. 伊藤の公式を使ってこれをチェックしてみましょう. 定理2でとし, とします. このときであり, 簡単な計算より
が成り立ちます. したがって, とおくと伊藤の公式より
が示せました.
次回予告
今回まで, Black-Scholesモデルの式について説明してきました. 次回からはいよいよデリバティブの価格付けへと足を踏み入れます. 投資戦略を1つ定めたときの資産価値を伊藤の公式により計算します. また, 数理ファイナンスで重要なリスク中立確率に関して説明します.
おまけ: 伊藤積分の構成
伊藤積分が定義できるための条件について大まかに説明します. 関数はランダム, つまり各時刻に対しは確率変数になっているとします.
- の確率分布は時刻までの情報でわかり,
- が成り立つ(正確には, 確率1で成り立つ)
とき, 伊藤積分を定義することができます. 1つ目の条件はなんとも曖昧ですが, 測度論的確率論と呼ばれる分野(数学者が確率論と言えばふつう測度論的確率論を指します)では「時刻までの情報」というのは数学的に厳密に定義されており, 「の確率分布が時刻までの情報でわかる」ということも厳密に表現できます. これらの条件からも, が確率論的に定義されていることがうかがえると思います. なお, 2つ目の条件をより強い(厳しい)
つまり確率変数の期待値が有限値になるという条件に変えた場合, 伊藤積分はマルチンゲール性という良い性質をもつことが知られています. マルチンゲールは数理ファイナンスにおいても重要な概念ですが, 本シリーズでは(おそらく)深入りしないと思います.